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question:请将“ところで、前記引用箇所において、鎌倉氏は、資本自体の自己矛盾>を、<労働力自体の再生産・労働過程内での労働自体は商品関係とは異質の実体的性格をもつということによって説明していた。この指摘は、もちろん原理的には正しいものである。しかし異質の実体的性格をもつ▽労働力を包摂することが、なぜ資本自体の自己矛盾を形成してしまうのかについては、述べられていない。そうすると、結局は、<労働力は資本の生産物ではない>ということを繰り返すだけになってしまうのであり、<自己矛盾>の本質も実態も、ほとんど解明されていないことになってしまう。であるかぎり、生産過程の内部での、労働日をきめる階級闘争に、労働力の商品化の無理の根拠をもとめた岩田弘氏の方が、明らかに一歩すすんだ解答を示していることになるだろう。 その同じ人労働力の商品化の無理を、私は生産過程と労働過程の関係のうちに求めた。その前提として私は、物質の生産の過程としての生産過程と、労働の行為過程としての労働過程という、概念の区別をおこなった。しかし、当然のこととして、一つの行為としては、生産過程と労働過程は、同一の過程にすぎない。すなわち、同一の過程であるにもかかわらず、運動の原理が異なるのである。資本は生産過程のなかでは、労働者ではなく商品としての労働力を、労働ではなく生産の行為を、労働能力ではなく生産能力をとらえていくことになった。商品として買い求められた生産能力の消費にすぎない生産の行為を労働者に強制することによって、すなわち生産の行為を商品の生産過程のなかに包摂することによって、労働過程への生産過程の支配を試みるのである。 <資本>と<労働の関係は、<生産過程>と<労働過程の関係をとおしてつくりだされ、また、であるがゆえに、<資本Ⅴの<労働の支配は、<生産過程>の<労働過程の支配というかたちをとおして成立するのである。資本制社会では、商品の生産過程としての価値の生産過程が、労働過程を支配し管理するかたちで、生産労働過程がつくられる。つまり、このこと自身が、すでに<資本Ⅴが<労働を支配していることの、実態的な表現をなしているといってもよいだろう。 15 だが、生産過程は、どのようにしたら労働過程を支配することができるのだろうか。これまで述べてきたように、労働過程は、商品関係によっては処理できないのであって、であるがゆえに資本は労働過程を、資本の労働過程として直接に生産することは、不可能なのである。結局、資本は生産過程の論理によって、労働過程を管理するというかたちをとることになった。生産過程の構造にもとづいて、労働の領域を、価値の生産過程に限定していく、すなわち労働の質の管理によって、自由な労働過程の成立を阻止していくことである。 このような視点からみていくなら、岩田弘氏の次のような指摘は、重要な意味をもってくる。 「もちろんこのばあい、資本主義は、こうした生産過程の矛盾(生産過程の内部において、労働者は資本家の自由に使える商品にならないという矛盾引用者)を、ある程度まで処理する機構はもっています。それは機械です。つまり、人間によって人間に労働を強制もするかわりに、機械によって人間に労働を強制するという方法です。人間による労働強制を、物による労働強制におきかえるという方法です。まさにこの点に資本主義生産における機械の根本的意義があるわけで、機械というのは、物の体系、客観的な機構です。」 機械ならびに技術の問題については、別の機会に検討しなおす必要があるにしても、労働の質の強制と機械の関係は、この引用において正しく素描されている。このことを、私の言葉で言い換えるならば、次のようになる。資本は、生産過程の構造を客観的な体系というかたちをとってつくりだし、その構造をとおして労働者に、労働内容を強制する。生産過程の構造に対応した、生産能力の消費としての生産行為を、この体系によって労働者に強制し、そのことによって、労働の関係範囲を縮小させる。すなわち労働力商品の現実化の行為へと、労働を純化させる方向性をつくりだすのである。生産過程での労働力の商品としての処理は、具体的には、生産過程の構造にもとづく、労働の質の管理というかたちをとるのであり、このことを客観的なかたちをとって成立させていく物質的力が、生産過程の体系であるといってもよい。”翻译为中文

answer:在前文引用中,鎌仓先生通过劳动力自身的再生产与劳动过程中的劳动自身具有与商品关系异质的实体性质来解释了资本本身的自我矛盾。当然,这个指出在原理上是正确的。然而,关于具有异质的实体性质的劳动力如何形成资本自身的自我矛盾,他并未进行说明。这样一来,最终只是重复了“劳动力不是资本的产物”这一说法,资本的“自我矛盾”的本质和实体几乎没有被揭示。就这一点而言,岩田弘先生试图从生产过程内部决定劳动日的阶级斗争中找到劳动力商品化困难的根源,显然提出了更进一步的答案。 我试图在生产过程和劳动过程的关系中寻找劳动力商品化的困难。作为前提,我进行了生产过程作为物质生产过程和劳动过程作为劳动行为过程的概念区分。然而,作为一个行为,生产过程和劳动过程实质上不过是同一过程。即使是同一过程,运动的原则却是不同的。资本在生产过程中不是抓取工人,而是抓取作为商品的劳动力,不是抓取劳动而是抓取生产行为,不是抓取劳动能力而是抓取生产能力。通过强迫工人进行仅仅是作为购买的生产能力消耗的生产行为,即尝试通过将生产行为包括在商品生产过程中来实现生产过程对劳动过程的控制。 资本与劳动的关系是通过生产过程与劳动过程的关系构建的,并且正因如此,资本对劳动的支配是通过对劳动过程的生产过程的控制来实现的。在资本主义社会中,作为商品生产过程的价值生产过程,以管理和控制劳动过程的形式构建生产劳动过程。换句话说,这本身就可以被视为资本对劳动支配的实体性表现。 但是,生产过程如何能够控制劳动过程呢?正如我们之前所讨论的,劳动过程无法通过商品关系处理,正因为如此,资本无法直接生成劳动过程作为资本的劳动过程。最终,资本通过生产过程的逻辑来管理劳动过程。基于生产过程的结构,将劳动领域限制在价值生产过程中,即通过管理劳动质量来阻止自由劳动过程的形成。 从这个角度来看,岩田弘先生的如下指出具有重要意义: “当然,在这种情况下,资本主义拥有一定程度上处理这种生产过程矛盾的机制。那就是机器。即是说,不是人强迫人进行劳动,而是使用机器来强迫人进行劳动。用物质强迫劳动替代人强迫劳动。机器的根本意义就在于此,它是物体系统,是客观机制。” 即使有必要在另一个时机重新考察机器及技术问题,劳动质量的强制与机器的关系在这段引述中被正确描绘。用我的话来说,即资本通过以客观体系形式构建的生产过程结构来强迫工人进行劳动内容。通过这个体系来强制工人进行作为生产能力消耗的生产行为,通过这种方式缩小劳动的关联范围。即创建了朝向将劳动纯化为劳动力商品实现行为的方向性。在生产过程中,劳动力作为商品的处理具体上就呈现为基于生产过程结构的劳动质量管理,这可以被视为构建在客观形式中的物质力量,即生产过程体系。

question:请将“本来、生産過程は、労働過程をその基礎とすることによって成立するものであり、このことは、資本主義的生産様式のもとでも、いささかも変わることではない。が、労働と生産の本質はそうであっても、実際には資本主義的生産様式では、生産過程の構造がまずつくりだされ、そこに従属して労働過程がつくられるという逆転が生じる。本来は労働の結果として生産が可能になるのであるが、ここでは、商品の生産過程が自立化し、そこで労働力を使用することをとおして労働過程が成立する。この生産過程と労働過程の転倒した関係の維持こそ、資本主義的生産様式の生命線であって、この関係が再び逆転することは、資本主義的生産の死を意味するのである。ところが、たとえ生産過程に従属してつくりだされたものであっても、労働過程は、あくまで労働の自己展開過程であり、資本の支配しうるところではない。つまり、労働過程と<労働の結合が、労働内的な成長をとげ、意識的な階級へと総括されていく可能性を、そこにいだきつづけるのであり、この意味において資本は、自らの運動の内部に、自らを止揚する実態を包摂してしまっているといってもよいのである。 である以上、労働過程を媒介とした労働内的な階級の形成過程をも管理する必要性が、資本には生まれる。この管理を、生産過程の構造による労働の質の強制による、生産過程による労働過程の支配として実現していくのである。このための最大の手段が、生産過程の構造、全体の生産システムをも含めた生産体系、また生産技術体系として用意されていた。それらのことによって、労働を、労働対象に対する自由な労働ではなく、単なる商品として買われた生産能力の現実化へと純化させようとするのである。 <資本>と<労働の階級関係は、生産過程と労働過程の関係を基礎としてつくりだされた。そうしていま、生産過程と労働過程の関係をとらえていくためには、生産過程における労働力の使用の形態、すなわち生産過程の構造に対する労働過程の関係の仕方の認識へとすすまなければならない。資本主義的な階級関係、階級支配関係は、この形態を基礎としてつくりだされてきた。 生産過程の構造を基礎とした、労働者への労働内容の強制が、な階級支配関係を成立させる物質的根拠となっていくのか、それは、労働と人間の根源的な結合関係から説明されるべき性格のものである。このことの説明は、結局、労働の場所が人間の再生産過程であるということからおこなわれる。 前記したように労働とは、労働能力の消費としておこなわれる行為である。それは労働能力としての姿をとった、主体の消費の行為であり、主体の消費は主体の対象化という過程を媒介として、主体の再生産過程として回帰してくる性格を持っている。それが、いわゆる労働が人間をつくりだしたことの根源的原因だといってもよいだろう。 だが、ここでみておくことは、労働によって消費しうる領域、消費しうる能力の範囲が、そこで対象化される主体の範囲を示すのであり、それが、再生産される主体の領域をも限定するということである。であるから自由な労働主体の再生産のためには、自由な労働能力の消費過程を成立させることを不可欠とするのである。 もちろんここでいう労働とは、別に価値の生産としての資本主義的な労働だけを示しているのではない。労働対象を加工していく行為は、この意味ではすべて労働であって、主体の消費―再生産とい運動の原理は、この広義な意味での労働のすべてにあてはまるものである。この広義な労働の一分野が、商品の生産過程に規定された、資本主義的な労働となった。 結局、資本主義的な生産労働過程において、労働主体の消費―再生産過程がどのような形態のうちに成り立っていくのか、このことをみていくことが階級の問題を論じるうえでは必要となるのである。ここにおいて、労働力の商品化の無理に関する諸問題は、経済学の領域から離れていく。セル商品の実もし、労働者が、自由な労働過程を所有することができたなら、労働過程は、労働者の労働能力の、自由な消費―再生産過程として成立しただろう。ここで使用する労働能力の範囲を限定するものは、労働対象と労働手段に限られるのであり、すなわちその範内での、総合的な労働に関する能力体系の消費の過程が実現するのである。ここにおいて労働能力は、人間として形成してきたすべての要素の体系を示す。ゆえにこの消費―再生産過程は、自由な主体の消費―再生産過程に他ならないといってもよい。”翻译为中文

answer:本来,生产过程是以劳动过程为其基础而成立的,这一点即使在资本主义生产方式下也丝毫不会改变。然而,即便劳动和生产的本质如此,实际上在资本主义生产方式中,生产过程的结构首先被建立,从而产生了劳动过程随之建立的逆转。本应通过劳动的结果使生产成为可能,但在这里,商品的生产过程实现了自立化,并通过使用劳动力使得劳动过程得以成立。这种生产过程与劳动过程倒置的关系的维护正是资本主义生产方式的生命线,若这种关系再次逆转,则意味着资本主义生产的死亡。然而,即便是随着生产过程而被创造的,劳动过程仍然终究是劳动的自我展开过程,不是资本可以控制的地方。也就是说,劳动过程与劳动的结合,有可能实现劳动内部的成长,并总结为有意识的阶级,从这个意义上讲,资本实际上包含了自己的运动内部的自我克服的实体。 因此,资本有必要管理通过劳动过程媒介形成的劳动内部阶级形成过程。这种管理以生产过程结构下的劳动质量强制的形式,实现对劳动过程的生产过程控制。为此的最大手段,是作为生产体系的生产过程结构,包括整个生产系统以及生产技术体系。通过这些手段,试图将劳动纯化为仅仅是作为商品购买的生产能力的实现,而非自由劳动对劳动对象的实现。 资本与劳动的阶级关系是基于生产过程与劳动过程的关系而建立的。因此,现在为了理解生产过程与劳动过程的关系,必须深入认识在生产过程中使用劳动力的形式,即劳动过程对于生产过程结构的关系方式。资本主义的阶级关系、阶级支配关系是基于这种形式构建起来的。 基于生产过程结构强制劳动内容的做法,为何能成为建立阶级支配关系的物质基础,应该从劳动与人类根本结合关系的角度进行解释。这一解释最终从劳动是人类再生产过程的事实出发进行。 如前所述,劳动是作为劳动能力消耗而进行的行为。它作为劳动能力的体现,是主体消耗行为的过程,并通过主体对对象化过程作为媒介,回归为主体再生产过程的性质。这可以说是劳动创造了人类的根本原因。 但需要注意的是,劳动力可以消耗的范围、可以消耗的能力范围,展现了在那里被对象化的主体范围,也限定了再生产的主体领域。因此,为了自由劳动主体的再生产,必须确立自由的劳动能力消耗过程。 当然,这里所说的劳动,并不仅指作为价值生产的资本主义劳动。所有对劳动对象进行加工的行为,在这个意义上都是劳动,主体消耗——再生产的运动原则适用于这个广义意义上的所有劳动。这个广义的劳动领域的一部分,成为了被规定为商品生产过程的资本主义劳动。 最终,在资本主义的生产劳动过程中,劳动主体的消耗——再生产过程将以何种形式实现,探讨这一点对于讨论阶级问题是必要的。在这里,关于劳动力商品化的各种问题将偏离经济学领域。如果劳动者能够拥有自由的劳动过程,则劳动过程将作为劳动者劳动能力的自由消耗——再生产过程而成立。限定这里使用的劳动能力范围的,将限制于劳动对象和劳动手段,即在此范围内实现综合劳动能力体系的消耗过程。在这里,劳动能力展示了人类形成的所有要素的体系。因此,这种消耗——再生产过程可以被认为是自由主体的消耗——再生产过程。

question:请将“自由な労働過程は、自由な労働主体をつくりだし、そのことは、労働過程を資本の生産過程の管理下に収めようとする資本主義的生産様式にとっての、自己矛盾を形成することになるだろう。だが、ここで重要なことは、たとえ自由な労働過程が成立しなくても、労働過程の存在は、資本にとっての自己矛盾を生みだす温床だということである。なぜなら労働過程はあくまで、労働を媒介として成立する、労働主体の再生産過程だからである。ゆえに労働を媒介としてつくりだされた人間の主体は、多かれ少なかれ、商品関係によってすべてを処理しようとする生産過程の論理とは、対立せざるをえない。すなわち<労働は<資本Ⅴに対して、自らを階級として措定せざるをえないのである。 資本主義的生産様式は、自己の生産労働過程の内部に階級関係を内包していくことになったのである。この矛盾を解消するには、労働過程を消滅させることが必要であり、当然それはつねに不可能である。しかし、前記したように、生産過程の構造をとおして、労働の質を生産能力の現実化としての行為へと無限に近づけることによって、労働の関係範囲を縮小させることはできるのである。 労働の範囲が広いほどに、労働主体は広範な再生産過程を所有することができる。逆にみれば、労働の関係領域の縮小化は、主体の縮小化=自由な主体の変質を促進していくことになる。また縮小化された労働の領域が、生産体系のなかでの労働力商品の現実化へと二重化していくことによって、労働者の労働の行為は、商品関係による労働力の処理過程へと、無限に近づいていくことになる。そのことは、労働主体の質が、商品関係の論理を反映していく方向性をつくりだすのである。 もし労働者が、商品関係においてのみ、自らを再生産することができたなら、労働者は資本主義的価値関係の人格的な表現へと変化していっただろう。もちろんそのためには、労働者が、商品としての労働力に純化する必要があり、当然それは不可能なことである。しかし、完全な労働者の主体の変質化が不可能でも、労働の質の支配をとおして、このような方向性をつくりだしていくことはできる。そしてこの方向にそって、現に資本主義的生産は、歩みをすすめてきた。 このことを実現するための柱が、労働の関係範囲の縮小にあったのである。生産過程の構造を客観的なかたちをとった体系としてつくりだし、この機構のもとに労働力を吸収する、そのことによって労働の質を、生産過程の現実化の行為へと純化していくのである。労働者はここで、商品関係によって認証された行為だけをおこなう。それは自由な労働過程の喪失であり、そのことによって資本は、労働のなかで対象化され再生産される労働者の主体を、商品関係のもとに包摂するのである。このような経過のなかでは、労働としての主体は、<資本Ⅴへの対決を示さない。資本の運動過程のなかに、無限に包摂されていくだけである。 生産-労働過程のなかには、労働としての主体を形成していく、階級形成の物質的な根拠と、<労働>主体を解体していく根拠と同時に存在していた。この両者が、つねに相対立する関係として存在しているのであり、どちらが優位を示すかは、労働の質をめぐる<闘争を媒介として決定されるものである。 ゆえにここで、生産技術の体系は、特殊な意味をもちはじめた。<資本>と<労働の関係を決定する中心的な位置をしめるようになる。生産技術の体系は、単に労働者に労働の疎外を強制しただけではなく、資本Ⅴの<労働Ⅴ支配の要をなしていった。近代以降の生産技術の発達は、けっして労働者を階級として結合させてこなかった。むしろ労働の質の変質は、賃労働と資本の関係の安定化に役立ったといってもよい。 もちろん、資本Ⅴの<労働の支配のためには、このこと以外の多くの諸政策を必要とした。だが重要なことは、<資本の労働の関係を決定する軸がどこにあるのかということである。この関係を決める基本が、労働形態を媒介とした生産過程と労働過程の関係のうちにつくられているのであり、この関係を基礎においてはじめて、賃労働と資本の間の諸政策はつくられているのである。”翻译为中文

answer:自由的劳动过程创造出自由的劳动主体,这对于试图将劳动过程纳入资本的生产过程管理之下的资本主义生产方式而言,将形成自身矛盾。但是,这里重要的是,即便自由的劳动过程没有成立,劳动过程的存在本身就是为资本带来自身矛盾的温床。因为劳动过程终究是以劳动为媒介成立的劳动主体的再生产过程。因此,以劳动为媒介创造出的人类主体,或多或少,与试图通过商品关系处理一切的生产过程逻辑不可避免地发生冲突。也就是说,劳动不得不将自己作为一个阶级对资本进行定位。 资本主义生产方式在其生产劳动过程的内部包含了阶级关系。解决这种矛盾需要消除劳动过程,这显然永远是不可能的。然而,正如前所述,通过生产过程的结构将劳动的范围无限接近于生产能力的实现行为,以此减少劳动的关联范围,是可行的。 劳动范围越广,劳动主体就能拥有更广泛的再生产过程。反之,劳动关系领域的缩减将促进主体的缩减=自由主体的变质。受缩减的劳动领域通过生产体系中劳动力商品的实现而二重化,使得工人的劳动行为无限接近通过商品关系处理劳动力的过程。这就形成了劳动主体质量反映商品关系逻辑的方向性。 如果工人只能在商品关系中实现自我再生产,那么工人将转变为资本主义价值关系的人格化表现。当然,这需要工人纯化为商品中的劳动力,这显然是不可能的。但是,即使完全的工人主体变质是不可能的,通过控制劳动质量的方式,也能创造这样的方向性。实际上,资本主义生产一直在朝这个方向前进。 实现这一目标的支柱在于劳动关系范围的缩减。通过以客观形态构建的生产过程结构体系将劳动力吸收,从而将劳动质量纯化为生产过程的实现行为。工人在此只进行通过商品关系认证的行动。这是自由劳动过程的丧失,由此资本将在对象化和再生产过程中的工人主体纳入商品关系之下。在这个过程中,作为劳动的主体不会展示与资本的对抗,而只是无限被资本的运动过程所包含。 在生产-劳动过程中,形成劳动即主体的物质基础和解构劳动主体的基础同时存在。这两者始终以对立的关系存在,哪一方占优势是通过围绕劳动质量的斗争来决定的。 因此,在此,生产技术体系开始承担特殊的意义。它占据了决定资本与劳动关系的核心位置。生产技术体系不仅是强迫工人进行劳动异化的手段,而且成为支撑资本对劳动支配的关键。近代以来的生产技术发展从未将工人作为一个阶级联系起来。相反,劳动质量的变质反而有助于稳定工资劳动与资本的关系。 当然,为了支持资本对劳动的支配,除了这些之外还需要很多其他政策。但重要的是,决定资本与劳动关系的轴心所在。这种关系的基础是通过生产过程与劳动过程关系这一媒介形态建立的,只有基于这种关系,才能建立工资劳动与资本之间的各种政策。

question:请将“階級の問題は、階級関係の問題である。<資本>と<労働の関係は、資本家階級対労働者階級という確定した力関係において成立しているのではなく、労働形態を媒介とした<資本>と<労働の階級関係としてしか、本質的には成立しないのである。ということは、単に力関係が確定していないだけでなく、本質において、<資本からみた<労働の位置が確定していないことを意味している。この位置関係は、労働形態をとおしてつくられ、すなわち生産過程と労働過程の位置の関係として生みだされている。であるから、生産過程が労働過程を支配している度合いにおいて、この関係は変化するのである。 <労働〉の物質的根拠である労働過程と、<資本の物質的根拠をなす生産過程が分離・二重化することこそ、資本主義的生産様式の本質であり、また同時に、生産過程の論理、すなわち商品関係の論理によって労働過程を規定し、労働過程の関係領域を管理することが、<資本の労働の支配を確立していくのである。 ここで生まれる階級関係が、階級支配関係の基礎を形成する。この稿のはじめで述べた、「支配論」がとらえるべきことは、この階級関係の構造ではないか思う。階級関係が、単に暴力を媒介とした人格的な関係によってつくられるのではなく、労働形態というよう労働と生産のプロセスのなかからつくられていくこと、そこに資本制社会の他の一切の社会と異なる階級の問題、支配の論理が成立するのである。労働外的な強制によって、階級の関係が確定するのではなく、労働の場所という、人間の再生産過程をめぐる生産過程と労働過程の確執が、この関係を決定していくのではないか。そのことは、資本主義的生産様式の特徴であり、また根源的な自己矛盾でもある。生産労働過程の内部に、絶えず不安定な階級関係を内包してしまっている以上、つねに<資本>の<労働に対する闘争が必要とされ、また<労働の<資本への対立を可能なものとしていくのである。 もちろん、この<資本>と<労働の関係は、本質的な意味での階級関係をあらわしているにすぎない。すなわちこの関係は、人格的な表現形態を所有して、はじめて、資本家階級と労働者階級の具体的な階級闘争に転化されるのである。ただそのことについて、今日では次のことがいえる。資本制社会においては、<資本Ⅴは<労働を自己の管理下に収めることに成功している。それを可能にした原因の一つは、<資本Ⅴが自らを資本家階級としてつねに総括していることにある。反対に<労働の側は、依然として本質的な規定の水準にとどまっているのであり、すなわち労働者階級として<労働の位置を総括してはいないのである。 生産過程と労働過程の関係が、本質的な意味での階級関係をつくりだし、そこに賃労働と資本に関する諸問題、支配の問題が生じる原理が成立した。が、この本質的な階級関係が、労働者階級と資本家階級としての、実態的な階級関係にまで上向するには、まず労働の労働者階級への総括が必要であり、そして第二に、労働形態の変革をとおして、階級関係を労働の側から変化させていかなければならないのである。 五 資本制社会におけるこのような階級関係、階級支配関係の分析を、「支配論」という視点から、ひとまず国家論からは独立してとらえ、それを再び国家論へとつなげてゆこうというのが、私の方法であった。つまり私は、この階級支配の関係が、法的、制度的に国家として総括化された形態として、資本制国家をみていこうとした。 この稿のはじめに、資本制国家は、市民社会における人権の確立とともにつくりだされ、それでいて国家は階級支配の役割を演じること、この二つの関係をどのように統一的にとらえたらよいのかという設問をおいた。そのことへの解答を次の様に考えていこうと思う。 近代における人権の確立は、言うまでもなく労働力商品の成立に対応してつくりだされてきた。『資本論』を引用するまでもなく、流通部面においては、労働者は労働力という商品の所有者として、資本家と対等の関係をとり結ぶ。その労働者が、生産労働過程のなかに入ったとき、そこでは直ちに<資本>と<労働の階級支配関係が成立してしまう。といって、はじめの流通部面における資本家と労働者の対等の関係は、一つの本質であってけっして単なる擬制ではない。資本主義的生産様式のもとでは、いったん労働者は自由な労働者として承認され、この自由な労働者を生産-労働過程の内部に包摂することによって、階級関係・階級支配関係が成立してゆくのである。 ”翻译为中文

answer:阶级问题是阶级关系的问题。资本与劳动的关系并非是在资本家阶级对工人阶级的确定性力量关系中建立的,而是本质上只能作为通过劳动形态媒介的资本与劳动的阶级关系才成立的。这意味着,不仅是力量关系没有确定,本质上,从资本的角度看,劳动的位置也没有确定。这种位置关系是通过劳动形态建立的,即作为生产过程与劳动过程位置关系而产生的。因此,生产过程对劳动过程的支配程度将决定这种关系的变化。 劳动过程作为劳动的物质基础,以及生产过程作为资本的物质基础的分离和二重化,恰恰是资本主义生产方式的本质,同时也是通过生产过程的逻辑,即商品关系的逻辑来规定劳动过程,管理劳动过程的关联领域,从而确立资本对劳动的支配。 此处产生的阶级关系形成了阶级支配关系的基础。我认为,《支配论》所应捉摸的正是这种阶级关系结构。阶级关系不是仅通过暴力这一人格化关系建立的,而是在劳动与产生过程之中产生的,资本制社会中与其他社会不同的阶级问题、支配逻辑就是这里成立的。通过劳动以外的强制来确定的阶级关系,而不是围绕人类再生产过程的生产过程与劳动过程的冲突,将决定这种关系。这是资本主义生产方式的特征,也是其根本自我矛盾。只要生产-劳动过程内部始终包含不稳定的阶级关系,资本对劳动的斗争就始终是必需的,并使劳动对资本的对立成为可能。 当然,这种资本与劳动的关系只是本质意义上的阶级关系的表现。也就是说,这种关系只有在拥有人格化表现形态时,才最终转化为资本家阶级与工人阶级的具体阶级斗争。就今天来说,可以说在资本制社会中,资本成功地将劳动纳入其管理之下。使其成为可能的原因之一在于,资本始终能够将自己作为资本家阶级综合起来。相对地,劳动方面仍处于本质的规定水平,并未将自己作为工人阶级的位置综合起来。 生产过程与劳动过程的关系构建了本质意义上的阶级关系,从而产生了有关工资劳动与资本、支配问题的原理。但是,要使这种本质的阶级关系向工人阶级与资本家阶级这一实体的阶级关系升华,首先需要将劳动概括为工人阶级,其次,通过改变劳动形态使阶级关系从劳动方面发生变化。 在资本主义社会中,这种阶级关系、阶级支配关系的分析,是我的方法,首先独立于国家论视角来考虑,进而再将其与国家论相连接。也就是说,我试图将这种阶级支配关系作为法律、制度背景下国家的综合形态来考察资本制国家。 文章开头,我提出了关于资本制国家是如何在市民社会中建立人权的同时扮演阶级支配角色的这两个相互关系如何统一的问题。我认为可以这样回答这个问题: 近代人权的确立无疑是与劳动力商品化相对应产生的。毋需引用《资本论》,在流通环节中,工人作为劳动力这一商品的所有者,与资本家建立了平等的关系。当工人进入生产劳动过程时,立刻建立了资本与劳动的阶级支配关系。但是,最初在流通环节中资本家与工人的平等关系是一种本质,绝不仅仅是一种假象。在资本主义生产方式下,工人一旦作为自由劳动者被认可,通过将这个自由劳动者纳入生产-劳动过程的内部,就形成了阶级关系和阶级支配关系。

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