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question:请将“一方で国家介入主義的な政策が極めて疑問視され、他方で西ヨーロッパ諸国において共産主義政党が台頭したような時代においては、国家行動の限界に関するすべての問題が極めて重要であった。すなわち、一方で資本の問題を解決する国家能力の限界と、他方で社会主義への移行において 国家を利用する可能性の限界である。(Holloway&Picciotto1978) したがって、資本の問題を解決しうる国家介入の可能性のみならず、むしろその解決能力の限界、そして変革戦略における国家活動の限界を問題にすること、これこそが私たちの擁護したい「政治の他律性」の意味なのである。導出論争に課せられたのは、マルクスのポリティカル・エコノミー批判の延長線上で国家批判を展開するという理論的試みだけではなかった。つまり、資本主義社会から共産主義社会への移行をどのように把握するかという実践的な課題である。じじつ、いち早く形態分析の観点から法学批判を展開したパシュカーニス自身が、エンゲルスやレーニンとは違った視角から「国家死滅」のテーゼを新たに定式化し、革命後のソビエト社会を理論的に位置づけていた。パシュカーニスによれば、「国家権力は階級分裂がなくなってからも、しばらくのあいだ残る」(Paschukanis2003,54.)。しかし、これは伝統的マルクス主義の階級国家論とは異なる意味においてである。つまり、国家が残存するのは、過渡期社会においてプロレタリアートによる「階級支配」が必要だからという理由ではない。というのも「法と国家は[・・・]等価関係の形態が完全にとりのぞかれるときに止揚する」からである。こうした「法死滅」テーゼは、ラートブルフらによって、「階級歴史貫通」的な法=権利形態)を無視しているとして度々非難され誤解される傾向にあった(Radbruch1930)。しかし、ネクトが指摘したように、パシュカーニスにとっても共産主義社会への過渡期において法=権利形態が直ちに止揚されるわけではない。「人間たちの自己管理によっていまだ統治されていない社会では、法=権利形態およびそれに基礎づけられた制度や規範が通用し続ける。それは、労働が何らかの形態での労働強制として存続し、したがって労働がいまだ人間の第一の生活欲求になっていない限りにおいてである」(Negt1975,21)。じじつ、パシュカーニスは、スターリン以降の「一国社会主義論」とは異なり、マルクスの『ゴータ綱領批判』にもとづいてソビエト社会の資本主義的性格を強調していた。つまり、過渡期社会においては、依然として商品交換にもとづく価値法則とそれを補完する法=権利・国家形態が残存することを強調したのである。 それゆえ、パシュカーニスによれば、レーニンの「生産手段の国有化」論が想定していたように、国家によって共産主義社会への移行が実現されることはない。アソシエイトした生産関係によって商品交換を廃棄することなしに国家を死滅させることはできないのだ。ところが、パシュカーニスの先駆的な国家形態論は、すでに彼の存命中においてもスターリン主義によっていっそうドグマ化した階級国家論によって転向を迫られ、粛清後は、伝統的マルクス主義の権力作用によって階級対立を隠蔽する理論として過小評価されてきた。そのなかで、例外的にパシュカーニスの階級国家論批判を再評価したのが「マルクスの新しい読み方」潮流である。西ドイツの「導出論争」は、西側の社会国家体制のみならず、東ドイツをはじめとする「現存社会主義」体制を批判し、アソシエーションが未形成のなかでは国家に主導された共産主義社会への移行には限界があることを示したといえる。すでに見たように、導出論争の理論的背景としては、当時の先進資本主義国において、増大する国家介入によって成立した国家独占資本主義あるいはケインズ主義的福祉国家をどのように評価するかという政治的対立があった。しかし、導出論争に共通する形態分析は、ミュラーとノィジュスの修正主義批判に見られるように、たんに社会国家の限界を指摘したにとどまらない意義がある。詳しくは第六章で展開するが、近年のホロウェイやヒルシュは、いわばラディカルな修正主義として、「形態規定」を重視する観点から社会国家の脱商品化的性格を「国家を社会に従属する」過程の一部として位置づけた。この点は、パシュカーニスの法学批判の実践的背景、すなわち共産主義社会への移行において国家を活用することなく、商品の等価交換にもとづく価値法則とそれを補完する法=権利形態とをいかにして変革するのかという問題と密接に関係している(Paschukanis2003,55)。”翻译为中文
answer:在一方国家干预主义政策受到极度怀疑的情况下,另一方面共产党在西欧各国崛起的时代背景下,所有关于国家行动限制的问题都显得极为重要。即一方面是国家解决资本问题能力的限制,另一方面是在向社会主义转型中利用国家的可能性的限制。(Holloway&Picciotto1978) 因此,不仅是国家干预解决资本问题的可能性,更是这种解决能力的限制,以及变革战略中国家行动的限制,这才是我们所要捍卫的“政治的他律性”的意义。导出论争的任务不仅是在马克思的政治经济批判延伸线上开展国家批判的理论尝试。实际上,它是一个实践性的问题,即如何理解资本主义社会向共产主义社会的转变。帕什卡尼斯自己,从恩格斯和列宁不同的视角,对“国家消亡”论重新提出了界定,并将革命后的苏维埃社会理论定位。帕什卡尼斯认为,“国家权力即使在阶级分裂消失后,也会存留一段时间”(Paschukanis2003,54)。但这与传统马克思主义的阶级国家论有着不同的含义。也就是说,国家的存留并不是因为过渡期社会中需要无产阶级的“阶级统治”,而是因为“法和国家将在……等价关系的形式完全消除时被废止”。这种“法的消亡”论曾被拉德布鲁赫等人因忽视了“阶级历史穿透”的法=权利形态而多次批评和误解(Radbruch1930)。然而,正如内克特所指出的,帕什卡尼斯也认为,在共产主义社会的过渡期,并非法=权利形态会立即被废止。“在尚未由人类自我管理的社会中,法=权利形态及其基础的制度和规范仍将继续存在。只要劳动以某种形式的劳动强制继续存在,因此劳动尚未成为人类的首要生活需求,则如是”(Negt1975,21)。实际上,帕什卡尼斯强调了苏联社会的资本主义特征,而不是像斯大林后期的“一国社会主义论”,是基于马克思的《哥达纲领批判》。也就是说,在过渡期社会中,依然存在基于商品交换的价值法则及其补充的法=权利・国家形态。 因此,按照帕什卡尼斯的观点,国家无法实现列宁所设想的通过“生产手段的国有化”论实现向共产主义社会的转变。没有废除商品交换的联合生产关系就无法使国家消亡。然而,帕什卡尼斯的开创性国家形态论在他生前就被斯大林主义转向更为教条化的阶级国家论所逼迫,并在清洗后被传统马克思主义以掩盖阶级对立的权力论所低估。在这种情况下,例外地重新评价了帕什卡尼斯的阶级国家批判的是“马克思新阅读”潮流。西德的“导出论争”批判了西方的社会国家体制以及东德等“现行社会主义”体制,表明在联合尚未形成的情况下,国家主导的共产主义社会转型存在限制。如我们所见,导出论争的理论背景是当时在先进资本主义国家中,如何评价由国家介入加剧而形成的国家垄断资本主义或凯恩斯主义福利国家的政治对立。然而,导出论争共有的形态分析不仅仅在于指出社会国家的限制,正如米勒和诺伊斯的修正主义批判所示,其意义不止于此。将在第六章展开讨论,但近年来霍洛威和希尔什作为一种激进的修正主义,从重视“形态规定”的角度将社会国家的去商品化特征定位为“国家屈从于社会”的过程的一部分。这一点与帕什卡尼斯的法学批判的实践背景紧密相关,即在向共产主义社会的过渡中,如何在不依靠国家的情况下,废除基于商品等价交换的价值法则及其补充的法=权利形态和国家(Paschukanis2003,55)。
question:请将“他方で、「導出論争」それ自体にも多くの欠点があったのも事実だ。論争の当事者であったヒルシュが総括しているように、導出論争は『資本論』における経済的カテゴリーからの国家の論理的導出に終始したために、何よりも歴史的感覚が欠如していた(八木1975)。つまり、歴史的闘争とそれに伴う実践の結果としてではなく、資本主義の機能にとっての必要性としてのみ国家を把握したのであった(Gerstenberger1973)。確かに当時の論争においては、前資本主義社会についての「歴史的考察」をふまえたうえで資本主義社会に固有な「政治と経済の分離および結合」を把握するのではなく、両者の機能的分離をすでに前提にして議論する傾向があったことは否めない(Esser(Esser1975,149)。この点が、マルクスのポリティカル・エコノミー批判やその形態分析に疎い論者によって、資本主義の発展段階や動態を無視した経済決定論の一種として批判されたのである。八〇年代以降にアメリカを中心に発展した「国家の歴史社会学」も、(導出論争を含む)ネオ・マルクス主義国家論は資本主義社会を機能させる限りで国家を論じているにすぎず、国家それ自体の論理を明らかにしていないと指摘している。一見すると、形態分析は、経済決定論を批判しながらも、経済主義を免れていないという自己撞着を起こしているように思われるかもしれない。しかし実際には、伝統的マルクス主義の経済主義・階級還元論モデル、そして国独資論などの政治中心主義を批判すると同時に、マルクスのポリティカル・エコノミー批判の延長線上で国家批判を展開したのである。度々強調してきたように、ポリティカル・エコノミー批判の核心は、「マルクス経済学」に見られる狭義の経済分析ではなく、国家を構成要素とする資本主義社会システム総体を把握することにあったのだ。 この意味で、ヒルシュが強調したように、「国家の導出」は完成した国家論ではなく、国家批判の基本的な出発点にすぎないといえよう(Hirsch2005,25)。近代国家は、たんに価値法則の次元で抽象的に把握されるのではなく、社会システムにおいて支配的ではない生産関係を考察するための歴史的展開、賃労働資本関係や蓄積過程における階級的支配関係の貫徹、そして社会的力関係が凝縮した政治的諸制度などを考慮した上で、具体的に分析されなければならない。ヒルシュ自身は論争後に、プーランザスの国家論やレギュラシオン理論などを摂取することで、唯物論的国家批判をさらに展開していくことになる。また、論争当時にブラウンミュールが強調していたように、マルクスのポリティカル・エコノミー批判は、国家批判を媒介として最終的には世界市場を分析するものであった。アルトファーターをはじめ初期の導出論争では、『資本論』第一巻の貨幣章を基礎として当時の世界通貨危機を分析するという希有な試みがあったものの(Alrvater1969)、特に「帝国主義」の新たな形態に関する分析は先送りされる傾向があった。第七章で詳しく検討するが、従属論や世界システム論のように、諸国家システムを加味したうえで、ネイションを横断した資本主義世界システム総体を分析するまでに至らず、グローバル化が進展した現代における主権国家体制の再編といった新たな歴史的発展の重要性をつかめなかったのである。とはいえ、次章以降で明らかになるように、資本主義国家の経済的・政治的機能の具体的分析や、ナショナリズムやレイシズムといった政治的現象、資本主義世界システムにおけるヘゲモニー国家の変遷などを分析するためには、導出論争で明らかとなった「資本主義の政治的形態」を理解することが不可欠である。いわゆる経済決定論を回避しながらも、長期停滞期の資本主義経済を分析し、かつ資本主義社会システムを総体として分析するためには、形態分析が賭け金となる。言うならば、唯物論的国家批判こそが、経済決定論を回避しながら経済システムを分析する回路を開くと同時に、国家(政治)中心主義に陥ることなく、社会的な制度や力関係を考慮した政治システム(体制)を把握することができるのだ。 ”翻译为中文
answer:另一方面,“导出论争”自身也确实存在许多缺陷。正如参与论争的希尔什总结的那样,导出论争因始终从《资本论》中的经济范畴对国家进行逻辑导出,而缺乏历史感觉(八木1975)。也就是说,导出论争理解国家不是作为历史斗争及其伴随的实践结果,而仅作为资本主义功能的必要性(Gerstenberger1973)。的确,当时的争论,而不是基于对前资本主义社会的“历史考察”来理解资本主义社会特有的“政治与经济的分离及结合”,而是趋向于预设两者的功能性分离来进行讨论(Esser 1975, 149)。这一点,被对马克思的政治经济批判及其形态分析不甚了解的评论者批评为一种忽视资本主义发展阶段和动态的经济决定论。80年代以后在美国中心发展的“国家的历史社会学”也指出,(包括导出论争在内的)新马克思主义国家论仅就维持资本主义社会运转的角度讨论了国家,而没有明确国家自身的逻辑。乍看之下,形态分析似乎落入了一种自相矛盾,批判经济决定论的同时,自己也未能避免经济主义。然而实际上,导出论争在批判传统马克思主义的经济主义/阶级还原论模型以及国垄资论等政治中心主义的同时,在马克思的政治经济批判延伸线上开展了国家批判。正如我们一直强调的,政治经济批判的核心不是狭义的经济分析,而是理解将国家作为组成要素的资本主义社会系统的整体。 在这个意义上,正如希尔什所强调的,“国家的导出”并不是完成的国家论,而只是国家批判的基本出发点(Hirsch 2005, 25)。现代国家不应仅在价值法则的维度上抽象地理解,而应该考虑到在社会系统中并非占主导地位的生产关系的历史发展、工资劳动资本关系和积累过程中的阶级支配关系的贯彻,以及社会力关系凝结成的政治制度等方面进行具体分析。希尔什自己在论争之后,通过吸收普拉扎斯的国家论和调节理论等,进一步展开了唯物主义国家批判。此外,正如论争时期布劳恩穆勒强调的那样,马克思的政治经济批判最终是通过国家批判来分析世界市场的。虽然早期导出论争中,以阿尔特法特为首的尝试基于《资本论》第一卷的货币章来分析当时的世界货币危机是一次罕见的尝试(Altvater 1969),但分析“帝国主义”的新形态往往被推迟。第七章将详细探讨,但没有达到考虑诸国家系统,分析资本主义世界系统的整体以及跨越民族国家的全球化进程中主权国家体系的重新组织等新的历史发展的重要性。然而,如后续章节将显示,为了分析资本主义国家的经济和政治功能以及国家主义和种族主义等政治现象、在资本主义世界系统中霸权国家的变迁等,理解在导出论争中所揭示的“资本主义的政治形态”是不可或缺的。避免所谓的经济决定论的同时,分析长期停滞期的资本主义经济并作为整体分析资本主义社会系统,形态分析至关重要。可以说,唯物主义国家批判既打开了分析经济系统的路径,同时允许不陷入国家(政治)中心主义的同时,考虑社会制度和力关系的政治系统(体制)的把握。
question:请将“階級論なき国家批判 マルクスは、一八四三年一〇月にパリでポリティカル・エコノミー研究を開始した直後の『経哲手稿」「序文」、そしてブリュッセル移住後の抜粋ノートにおいて、政治(学)および国民経済学の両体系を批判する構想を書き留めている(柴田1973,60)。MEGA第1部に収録された「一八四四-一八四七年の手帳」には、四四年一一月に執筆された政治(学)批判プランに関する覚書が残されている。 1)近代国家の成立史あるいはフランス革命。 政治制度Wesenの自己顕示。古典古代国家との混同。ブルジョワ社会にたいする革命家たちの関係。ブルジョワ制度と国家制度へのあらゆる要素の二重化。 2)権宣言と国家の憲法。個人的自由と公的権力。 自由、平等および統一。人民主権。 3)国家とブルジョワ社会。 4)代議制国家と憲章。 立憲的代議制国家と民主的代議制国家。 5)権力の分割。立法権力と執行権力。 6)立法権力と諸々の立法団体。諸々の政治クラブ。 7)執行権力。中央集権化とヒエラルヒー。中央集権化と政治的文明化。連邦制度と産業主義。 国家行政と自治体行政。 8)司法権力と法=権利 8)国民性と人民。 g)諸政党。 g)選挙権、すなわち国家とブルジョワ社会の止揚のための闘争。(MEGAIV/3,11) しばしば批判されるように、マルクス自身の政治理論は、一九世紀末にようやく定着したリベラル・デモクラシーの政治システム(代議制、立憲主義など)を本格的に検討したものではない(大藪1996,258;Demirovic1997,Ch.4)。したがって、いわば「憲法論」を構想したようなこの覚書からマルクスの政治(学)批判を再構成することは有意義だと思われるかもしれない。しかし、ポリティカル・エコノミー批判の観点から「国家の導出」を試みる「形態分析」を重視するならば、初期マルクスの政治思想を無批判に考察することは問題含みである。なぜなら、ポリティカル・エコノミー批判から切り離してマルクスの政治理論を再現することは、政治システムそれ自体の分析、すなわち「政治の自律性」という問題構成に陥ってしまうからだ。すでに見たように、このような「政治の自律性」にたいする批判は導出論者たちが共有する問題意識であった。ハインリッヒはさらに議論を進めて、ポリティカル・エコノミー批判と結びついていないために、初期マルクスの国家批判が啓蒙主義的な規範論にとどまっていると指摘している(Heinrich2004,Ch.11)。確かに、初期マルクスの国家批判は、「唯物論的方法」やポリティカル・エコノミー批判を欠いているが、ほんとうに考慮する価値のないものなのだろうか。 エンゲルス以降、伝統的マルクス主義の国家論は、『宣言』や「フランス三部作」の「階級国家論」を重視し、それを「階級歴史貫通」的な国家論へと体系化してきた。一方、マルクス自身は五〇年代以降にポリティカル・エコノミー研究をさらに進展させ、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙への寄稿論文などにおいて、ブルジョワ社会が最も発展したイングランドを本格的に分析するようになる。そこでは、産業資本主義の発展にともなう階級対立の激化を反映した、いわゆる「ブルジョワ国家」論が展開されていた(大藪1978,第4章)。しかし、私たちの課題はマルクスにおける階級国家論の形成過程を追跡することではない。むしろ、初期マルクスの政治(学)批判の核心は、階級論なき国家批判にあると思われる。つまり、初期マルクスの国家論は、伝統的マルクス主義が重視する階級国家論がいまだ定式化されていないため、マルクスの国家批判に固有のモチーフである「国家の形態分析」を垣間見ることができるのだ。じじつ、マルクス主義批判者が想定するのとは反対に、そもそも近代社会における階級対立の分析それ自体はマルクスに独自なものではなかった。ヴァイデマイヤーに宛てた一八五二年の手紙において、マルクスは次のように述べている。 ところで私について言えば、近代社会における諸階級の存在を発見したのも、諸階級相互間の闘争を発見したのも、別に私の功績ではない。ブルジョワ歴史家たちが私よりずっと前に、この階級闘争の歴史的発展を叙述したし、ブルジョワ経済学者たちは諸階級の経済的解剖学を叙述していた。私が新たに行ったことは、1諸階級の存在は生産の特定の歴史的発展段階とのみ結びついているということ、2階級闘争は必然的にプロレタリアート独裁に導くということ、この独裁そのものは、一切の階級の廃絶への、階級のない社会への過渡期をなすにすぎない、ということを証明したことだ。(MEGAIII/5,76)”翻译为中文
answer:没有阶级论的国家批判 马克思在1843年10月在巴黎刚开始研究政治经济学之后就在《经济学哲学手稿》“序言”中,以及之后搬迁至布鲁塞尔的摘要笔记中,记录下了批判政治(学)和国民经济学两个体系的构想(柴田1973,60)。收录在MEGA第一部的“1844-1847年的笔记”中,留有1844年11月撰写的关于政治(学)批判计划的备忘录。 1)现代国家的成立史或法国革命。 政治制度本质的自我展示。与古典古代国家的混淆。革命家们与资产阶级社会的关系。资产阶级制度与国家制度中所有要素的双重化。 2)权利宣言和国家宪法。个人自由与公共权力。 自由、平等与统一。人民主权。 3)国家与资产阶级社会。 4)代议制国家与宪章。 宪政代议制国家和民主代议制国家。 5)权力的分割。立法权与执行权。 6)立法权与各立法机构。各政治俱乐部。 7)执行权。中央集权与等级制度。中央集权与政治文明。联邦制与工业主义。 国家行政与地方自治。 8)司法权和法=权利 9)国民性与人民。 g)各政党。 g)选举权,即国家与资产阶级社会的废止之争。(MEGAIV/3,11) 经常被批评的是,马克思自己的政治理论并未全面考察最终在19世纪末确立的自由民主的政治体系(例如代议制、宪政主义等)(大藪1996,258;Demirovic1997,Ch.4)。因此,可能会认为按照这份构想的“宪法论”备忘录重构马克思的政治(学)批判是有意义的。然而,如果重视政治经济批判的“形态分析”视角进行“国家的导出”,那么不加批判地考察早期马克思的政治思想就会变得有问题。因为,如果脱离政治经济批判来重构马克思的政治理论,就会陷入针对政治体系本身的分析,即“政治的自律性”的问题构成中。正如我们已经看到的,这种“政治的自律性”的批判是导出论者们共有的问题意识。海因里希进一步讨论指出,由于与政治经济批判相脱离,早期马克思的国家批判停留在启蒙主义的规范论上(Heinrich2004,Ch.11)。确实,早期马克思的国家批判虽缺乏“唯物论方法”和政治经济批判,但真的没有值得考虑的价值吗? 恩格斯之后,传统马克思主义的国家论强调了《宣言》和“法国三部曲”的“阶级国家论”,并将其体系化为“阶级历史贯彻”的国家论。另一方面,马克思在50年代以后进一步深化了政治经济学研究,在《纽约每日论坛报》等的投稿文章中开始全面分析资产阶级社会发展最成熟的英国。在这里,展开了反映工业资本主义发展伴随的阶级冲突激化的所谓“资产阶级国家”论(大藪1978,第4章)。然而,我们的任务不是追踪马克思阶级国家论的形成过程。相反,早期马克思的政治(学)批判核心似乎在于没有阶级论的国家批判。也就是说,早期马克思的国家论是因为尚未形式化传统马克思主义重视的阶级国家论,因而可以一瞥马克思国家批判固有的动机即“国家形态分析”。实际上,与马克思主义批评者所假定的相反,近代社会中阶级对立的分析本身并非马克思所独有。在1852年写给魏德迈的信中,马克思这样说: 至于我而言,不是我发现了近代社会中的各个阶级的存在,也不是我发现了各个阶级之间的斗争。早在我之前,资产阶级历史学家就已经描绘了这种阶级斗争的历史发展,资产阶级经济学家也描述了各个阶级的经济剖析。我所做的新贡献是,1表明这些阶级的存在仅与生产的特定历史发展阶段相联系,2阶级斗争必然导致无产阶级专政,这种专政本身只是废除一切阶级以及无阶级社会的过渡期,这就是我所证明的。(MEGAIII/5,76)
question:Write really funny super hilarious rude sarcastic sass comedy 17+ thomas transcript based on each of my prompts: Duck works very hard on the Island of Sodor and everything goes smoothly when he is around. He can keep the trucks in line, the coaches quiet and the passengers happy. He is very proud of his Great Western heritage and talks endlessly about it, which irritates the larger engines, who quickly grow tired of hearing about “the Great Western way”. One morning, a visitor arrives. The Fat Controller introduces the new engine as Diesel, stating that he has agreed to give him a trial and tells Duck to show him around and teach him what to do. Diesel introduces himself before heaping compliments on Gordon, James and Henry, who are in awe by his flattery. Duck, however, takes a dislike to Diesel’s oily nature and shows him to the yard, where it becomes apparent that Duck’s dislike of Diesel is mutual as Duck orders Diesel to refer to the Fat Controller as “Sir Topham Hatt” before Diesel smugly tells Duck that he does not have to be taught what to do, saying Diesels know everything and come to a yard to improve it, dubbing himself as “revolutionary”. Duck is not impressed with Diesel’s boasting and orders him to arrange the trucks while he leaves to take Gordon’s coaches to the station. Eager for the chance to show off, Diesel quickly gets to work. When Duck returns, he finds Diesel trying to move some very old, near-derelict trucks with stiff joints and brakes from a siding. Duck decides to let the events play out and watches with interest. Diesel struggles to move the trucks and gets so forceful with them that some of their brakes snap and the gear jams in the sleepers, causing several of the trucks to derail and overturn in the process. Diesel tries to push the remaining trucks back but he still cannot move them and is forced to give up. As Duck finally comes around carrying some other trucks, Diesel asks Duck why he did not tell him about this when he had gone through so much trouble. Duck replies that Diesel never asked him, as he was having fun being “revolutionary”. Duck leaves happily, while Diesel fumes angrily. Diesel is later forced to help the workmen clear the mess, a job that he hates, especially as the trucks have started laughing at it and he hears them singing a degrading song at him too. It grows in loudness, soon echoing throughout the whole yard. Now cross with Duck and the trucks, Diesel storms off to the sheds to sulk when the clean-up is over.
answer:(Scene: Early morning on the Island of Sodor, sun shining, birds chirping, and Duck zooming around with the efficiency of a caffeinated squirrel on payday.) Narrator: "Duck, the little green engine, is hard at work, showing off his 'Great Western' plaque like it's an all-access pass to every exclusive club in town. His pride in his heritage is so immense, it could fill the cargo of a fleet of trucks - much to the chagrin of the larger engines, whose eyes roll so hard at Duck's tales, they could generate enough power to light the whole island." Duck (bragging to an unenthusiastic Gordon): "Ah, Gordon, if only you knew the 'Great Western way', you'd understand real efficiency." Gordon (muttering under his breath): "If I hear 'Great Western way' one more time, I swear I'm turning myself into a scrap sculpture." Narrator: "Then enters Diesel, the engine so slick, he makes oil spills look like a minor inconvenience." Diesel (oozing charm): "Gordon, darling, those wheels! James, that paintwork! Henry, what stature! And you're... Duck, was it? Quaint." (Duck's eye twitch could win an Olympic gold.) Narrator: "Sir Topham Hatt, in his infinite wisdom, tasks Duck with showing Diesel around - like giving a cat the job of babysitting goldfish." Duck (clearly thrilled): "Welcome to the funfair, Diesel. First ride: the wild world of truck sorting!" (Diesel, unimpressed as a teenager at a family reunion, boasts about diesels knowing everything.) Diesel: "I'm here to revolutionize, Duck. Step aside and watch genius at work." Narrator: "And oh, did Diesel 'revolutionize' - if by revolutionize, you mean turning a fully functional yard into a scene from a disaster movie." (Diesel, struggling with the trucks, looks as if he's wrestling an invisible octopus.) Narrator: "When Duck returns, he finds Diesel, the 'revolutionary', about to declare war on a bunch of trucks that have seen better centuries." Duck (with all the innocence of a wolf in grandma's clothing): "Oh, Diesel, you wanted a challenge, right? Revolutionaries love those!" (Diesel's ambition crashes harder than the trucks.) Narrator: "Poor Diesel ends up doing clean-up detail, serenaded by the mocking echoes of the trucks' laughter. Ah, music to Duck's ears." Diesel, fuming and embarrassed, retreats to the sheds to plot his next 'revolutionary' move, probably inventing a truck translator to avoid future humiliations. Narrator: "And thus ends another 'peaceful' day on Sodor, with Diesel learning the hard way that 'knowing everything' includes knowing when to ask for help. As for Duck, well, he rides off into the sunset, his 'Great Western' ego shining brighter than ever, ready to regale anyone who'd (not) listen about today's 'victory'. Because on Sodor, every day's a comedy show, you just need to know where to look." (Scene fades out with the sound of Diesel muttering revenge plans and Duck whistling "The Great Western Way" off-key.)